海棠の咲く頃『海棠の咲く頃』050410わぁ、きれい。 ねぇ、遠回りをしようよ。 駅までの道を少し遠回りして、わたし達は桜並木を見上げた。 家の近くの桜もこのうえなくきれいで、さっきから溜息の連続だった。 桜って、すごい生き物だね。 少しくらいの病気やモヤモヤなら、こうして癒してくれるもの。 この桜はどうしたって今年の桜で、去年とも来年とも違う。 だから今、わたしは見たいのだ。 今日の天気は、最高の行楽日和。 降り注ぐ陽射しはすっかり初夏のものである。 人々がこぞって桜を求めるせいか、江ノ電は都会の朝のラッシュと寸分違わぬ混みようだった。 狭い車内は老若男女がひしめき合い、長谷駅で下りると、ホームはごった返していた。 こういう時は、流れに逆らわないこと、何しろ行楽日和にこの時季最高の行楽地を目指しているのだから。 そしてまもなく徒歩一分の収玄寺。 ここは、長谷界隈散策コースには、どうしてもはずせない寺である。 手入れの行き届いた境内には四季を通して種々の花々が咲き誇り、十分に目を楽しませてくれるのに、それをなんと無料で見せもらえるのだ。 今は、可憐な白いハナニラがそこら中に、コンペイトウのような星を瞬かせている。 折しもトキワマンサクが満開で、不思議な風情で咲いていた。 長谷寺方向に道を取り、最初の一本目を右折する。 そのまま人の流れに身を任せていると、目的の光則寺に辿り着く。 山門の枝垂れ桜が楽しみなのだけれど、やはり時はすでに遅かりしであった。 それでも参道沿いのソメイヨシノが、青空に向かって堂々と満開の枝を広げていて、それは見事な桜であった。 山門前の料金箱に二人分の二百円を入れて中に入った。 どれもこれもが満開のオンパレードだが、やはりここのハナカイドウの見事さは、別格であった。 空に挑むその姿は、花自体の可憐さとは別の、勇壮さすら感じさせてくれる。 大好きな光則寺のハナカイドウに、今年はとうとう会えた。しかも長女を伴って……。 わたしは懐かしさと嬉しさで、その大木をじっと見上げていた。 当時高校一年生だった長女の幼いおかっぱ頭が浮かび、胸が熱くなった。 彼女も、そのことが記憶に蘇ったのか、ああという顔をした。 あれから夥しい時間がわたし達の上を流れ、今の彼女の心は全く鎮まっているけれど、たった一人の反乱が始まったのは、それから間もなくのことであった。 見たこともない形相でわたしを睨みつけ、体中での抵抗にわたしも必死だった。 ドロップアウトしないように、嫌われても疎まれても我が子にしがみついていた。 「これ何の花?」 何度聞いても覚えられないよと柔らかく微笑みながら、傍らの花の名をきいた。 「石楠花(しゃくなげ)よ」 「そう?ぼってりしていて好みじゃないわ。ところで母さんは花の名前をどうやって覚えたの?」 「やっぱりあなたと同じように母親に教わった気がするけどね」 でも、本当はどうだったろうか。 わたしはデジカメを取り出して、そこいらの花々を被写体にシャッターを切った。 確かに時間というものは、物事を風化し解決へと導くものだけど。 当時は、今の安寧が戻るなどとても信じられなかった。 生涯続くかもしれない目の前の反乱を、嘆き悲しみのた打ち回った。 でも、迎合しなかったからなのか、今傍らの長女は、抱きしめたくなるような柔らかな微笑をたたえている。 眩しそうに見上げる太陽が、オールバックにしたオデコの後れ毛を、金色に輝かせている。 それを見つめられる幸せに、わたしはどっぷりと浸かっていた。 そのとき、歓声が湧き上がった。 なんだろうと近づいてみると、境内のはずれで孔雀が金網越しに羽を広げていた。 どの角度が一番美しく見えるのかを知り尽くしている。 まるで歓声に応えるように、ゆっくりとショーを始めたのであった。 美しい。人工的ではない色彩の、なんと艶やかなこと。 拍手が止まない限り必死で羽を広げ続けている様は、筋金入りのプロ根性である。 「どうする?もう帰る?」 「今から間に合うかしら?ルーブル美術館展へ行きたいけど」 「間に合う、間に合う」 あわてて横須賀線の電車に飛び乗って、横浜美術館を目指したのは、言うまでもないことであった。 ジャンル別一覧
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